うつくしく ていねいに 暮らす

うつくしく、ていねいに暮らすための 「衣食住」「収納」「断捨離」「整理整頓」「節約」など わがやの暮らしを簡潔な記事でご紹介しています。

タグ:癌

2月8日に旅立った父の記録前回はこちら  【2023.2.8】時はすこしさかのぼり父が亡くなったときの様子前夜に、父が母を手招きして側に置き一晩中母はそこを離れなかったそうです父にはわかったのでしょうか8日の朝になり母とおばはいつも通り起床し(母は一睡もしていないの ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




前回はこちら 





【2023.2.8】




時はすこしさかのぼり

父が亡くなったときの様子

前夜に、父が母を手招きして側に置き

一晩中母はそこを離れなかったそうです




父にはわかったのでしょうか




8日の朝になり

母とおばはいつも通り起床し
(母は一睡もしていないのですが)

ラジオ体操をして

朝ごはんを食べ

朝の連続ドラマを観ていました




ドラマがおわったころ

父が「テレビ消して」の

ジェスチャーをしたそうです

ドラマがおわるのを待っていたのでしょうね




つまり

父は最後まで意識があったということ




ドラマをおわったのが7:45

母が「もうだめだ」と

わたしに電話をくれたのが7:50

「息を引き取りました」

と、LINEをくれたのが8:37




あっという間の出来事でしたが

亡くなる直前に

ずっと瞑っていた目を

一瞬カッと見開いたそうです




そして、両手で「バイバイ」の

ジェスチャーをしたそうです

渾身の力を込めて

お別れをしたのでしょうね




自分が死んでゆく感じは

死んでみないとわからないので

死ぬまで一生わからないですが

きっと父にはわかったのでしょう




父が余命宣告をされたとき

「最後は寝たきりになる」

と言われたそうですが

つい先日まで元気だったのに

お医者さまのおっしゃる通りになりました




なんとなくイメージとして

寝たきりになって

本人の意識もなくなってきて

知らぬ間に逝くのかと思っていましたが




父は、最期までこの世を見つめていました




どこかが痛むわけでも

苦しいわけでもなく

自宅で最愛の妻に見守られながら

最期にお別れの儀式までして




なんとも潔い最期でした




余命宣告されてから

一年以上かけて

こういう状態になったので

もしかしたらこのまま

一ヶ月、数ヶ月

生きながらえるのかと思いましたが




寝たきりになってから二週間足らず

レンタルしたポータブルトイレも

用意しておいたおむつもほぼ使うことなく

自宅での介護入浴を利用したのも

結局一回きりでした




本当は亡くなったこの日が

2回めの入浴の日だったので

最後にすっきりさせてあげたかったけれど

母の負担を最小限にして

潔く幕を下ろしました




訪問医師は

二週間に一度の訪問だったのですが

いよいよとなって週に一度になり

前日もいらして

そしてこの日も訪問の予定でしたが

「今日とは思わなかった」そうです




これからは月一のパーティーのとき

もちろん父は食卓にはつけず

ほぼ飲み食いできない父を尻目に

わいわいするのか…?




なんて思っていましたが

父は最後までいっしょに

わいわいできました

できなくなったとき…

潔く去りました




くだらない話で大変恐縮ですが
ネイル
ネイリストさんは父の事情を知っているので
「一番控えめな色にしてください
明日かも知れないし
半年後かも知れないんだけどね」

と伝えて、うすいベージュにしてもらった
翌日に亡くなりました




いつも、ネイルの後

食品や日用品の買出しをするのですが

自分のことも、家のことも

すべて整ったタイミングでした




主婦は、なにが起ころうが

家のこと、家族のことが

最優先ですから

くだらないことだけど大切なんです




悲しみのあと

献立や買物

ベガのごはんを気にすることなく

思い切り父を偲ぶことができました




ベガといえば…




ねこはよく「死の国の遣い」

と言われるほど死に敏感なので

なにか異変を感じて

知らせてくれたりするのかな〜?




なんて思いましたが
そんなことなく
平常運転でした
IMG_2386
ベガもちょっぴり
つらいときでしたが
いい子でお留守番してくれました




よく虫の知らせとか

最期に会いに来てくれたとか

聞きますが

そういうのも一切なく




父とわたしは

ちゃんと最後にお互い後悔なく

お別れをしているので

父も安心して旅立ったのでしょう




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら  【2023.2.8】主人と朝食を食べ主人は歯磨き中わたしは食器洗い中電話が鳴りました時間は7:50わたしの携帯電話の通知を見てくれた主人が「お母さんから」もうわかりましたみんなで集まる予定だった2月11日までもってくれと願っていま ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




前回はこちら
 





【2023.2.8】




主人と朝食を食べ

主人は歯磨き中

わたしは食器洗い中

電話が鳴りました




時間は7:50

わたしの携帯電話の通知を

見てくれた主人が

「お母さんから」




もうわかりました

みんなで集まる予定だった

2月11日までもってくれと

願っていましたが




だめだったかと




「もうだめだから来て」
2月8日7:50母着信
たった2分間の会話
そのうちの1分間は
電話を切るのも忘れて
父の元へ走った母へ
「もしもしお母さん?もしもし?」
と呼びかけていた時間




まだ間に合う




親の死に目ですから

着の身着のままで

家を飛び出すのかも知れませんが

わがやは冷静でした




主人は仕事を休むから

どうしてもやらなきゃいけないことだけ

急ぎ片付けて

そしたら二人で車で向かおうと




こんなとき

二人になにかあってはならないので

「二人いっしょに」

車の方がなにかと動けるとで「車で」




それが主人の判断でした




わたしは洗い物のつづきをして

歯を磨いて

そのとき、携帯電話を見るのが

習慣なのでふとLINEを開くと




<母のLINE>

父あれからすぐ息を引き取りました
先生も間に合いませんでした
だから慌てずに来て下さい




7:50に電話があって

8:37にLINE

本当にあっという間の

できごとだったようです




LINEを見た瞬間「あ…」と

力が抜けかけましたが

だいじょうぶです

「お父さんお疲れさまでした」




母の言う通り

慌てずに冷静に

主人に連絡をし




歯を磨き

洗濯物をたたみ

ベガにごはんとお水をたっぷり用意して

着がえて




急ぎの仕事だけ片付けて帰ってきた主人と

10時には家を出て

コンビニでコーヒーと甘いのを買って

主人と談笑しながら




まるで楽しいドライブかのように

もう父のいない実家へ向かいました




ちょうどお昼くらいに着きました




家族の遺体と対面するのは

はじめてだったからか

悲しみよりも緊張していました

母とおばに挨拶をしてから




ゆっくりゆっくり

リビングの真ん中に

横たわる父に近づきます




土色になってもう動かない父

わたしは泣き崩れるわけでもなく

「わーもう動かないんだ」みたいな

ふしぎな心境でした




手を洗ってから

お線香をあげ

手を合わせ

改めて「お父さんお疲れさまでした」




毎日飲んでいたお茶と
最後まで飲んでいたシードルとコーラ
「もう自由なんだからビールも置こうよ」
後からだいすきなスーパードライも置きました
IMG_1780
右上のものが最後に父に贈った梨
メロンのように大きくてびっくり
父は一度では食べきれず
残ったものを母が食べさせてくれました




「お父さんに触るの怖い」と言ったら

「いっぱい触ってあげて」と母

痩けてしまった頬に触れるのは

なんだか申し訳なくて

額に手を置きました




すごく冷たいわけでもなく

でも、もう温もりのない父




こんなときでもお昼を用意してくれた母
このとき既に父のことを
ブログに残そうと決めていたので
いちいち写真を撮りました
IMG_0253
ランチによくつくってくれた母の味
インスタント麺なんですけど
「その辺のヘタなラーメン屋よりおいしい」
と、父がよく言っていました




話は葬儀のことへ

父の遺言は「密葬」でした

コロナがなければ

そんな発想はなかったかも知れません




父は、現役バリバリではないものの

まだ仕事の繋がりもあり

顔も広く、人望は厚く…

本来なら盛大にお見送りしたかったですが




母は「ゆっくりお見送りができる」

と感謝していました

わたしも同じ想いでした




葬儀のバタバタがあるから

遺族の悲しみが少し紛れるし

以前までのわたしは

「そういう意味でも葬儀は必要な儀式なんだ」

と思っていましたが




今この状況で

葬儀の打ち合わせや

遠方から来る親戚や知人の

対応なんてとても無理でした




ことばは大変失礼ですが

密葬は本当に「楽ちん」です

通夜もなし遺影もなし

花や食事など、なんにも決める必要なし




それでも、その日のうちに

葬儀屋さんは2回来ました

亡くなってすぐお線香など周りを整え

2回めは、主人もわたしも居たので同席しました




30分くらい話したでしょうか

今後の段取りや確認そして見積もり

なにもない密葬でも

ある程度の打ち合わせはあります




その葬儀屋さんは

わたしが小学校へ通う通学路にあり

こどもごころに「なに屋さんだろう?」

と、すごく印象に残っているところでした




家族はずっとその地に暮らしていたので

当たり前と言えば当たり前なのですが

なん十年の時を経て

今こうしてお世話になるとは

ふしぎなえにしを感じました




それから数時間が経ち

やっと姉が来ました

わたしは前回の記述の通り

冷静な姉を想定していたので




いつも通り

「おねえちゃんやっほー」
(父親が亡くなったというのに)

みたいなノリで出迎えました




ところが

姉の様子が変でした

目がうつろで

わたしに対して無反応




ふらふらと

リビングに入った途端

泣き崩れました

まだ父の遺体は遠くにあるのに




よくメディアは

「号泣」というワードを

簡単に使いますが

号泣とは、こうゆうことを言うのだと




終始「わたしは平気よ」

みたいな態度だったのに

聞いてないよ

ズルいよおねえちゃん




こんな姉を見るのは初めてでした

母と抱き合って泣き叫ぶ姉

わたしもようやく

便乗して思い切り泣いたような気がします




人の心は本当にわからないものです

例え家族でも…




姉は、葬儀がおわった後も

わたしよりずっと引きずっていて

ことあるごとに泣いていたようで

父の写真など見るのも拒んでいました




その後、実家へ行った際も

泣いてしまった話を

母から聞き

「あの子は意外と脆いのよ」と…




知りませんでした

なん十年も姉妹だったのに

いつもわたしの盾となってくれた姉

本当はわたしより脆かった




ひとしきり泣いた後

父が食べ残した梨を食べながら

いつも通り楽しく(?)過ごし

その日は解散しました




-----------------------------------------------------




父の最期の様子は

だいぶん時間が経ってから

母に聞きました




すこし生々しいかも知れませんが

忘れたくないので

次回、書き記したいと思います




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら【2023.2.2】父と最後の対面の日前日のめいっこのようにいっしょに写真撮りたいなあと思っていたのですが言い出せずすると父の方から「自撮りをお願いします」とわたしは涙を拭いて精一杯の笑顔で撮りました「父娘の最後の写真」父はず ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




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【2023.2.2】




父と最後の対面の日




前日のめいっこのように

いっしょに写真撮りたいなあ

と思っていたのですが

言い出せず




すると

父の方から「自撮りをお願いします」と

わたしは涙を拭いて

精一杯の笑顔で撮りました




「父娘の最後の写真」




父はずっと「ガンは幸せな病気なんだよ」

と言っていました
(そういうタイトルの本もありますよね)

わたしもそう思います




もちろん

闘病は本人も周りもつらいですが

お別れの準備ができます

一年かけてお別れの準備をしてきました




「最後の誕生日」

「最後の対面」

「最後の写真」

「最後の言葉」




「最後かも知れない」という気持ちで

お別れができるということは

本当に幸せなことです




父が「何時までいられるの?」と

こんなときまで

ベガのことを気にかけてくれたのか




わたしは名残惜しくも

あまり長時間は家を空けられません

いよいよお別れです




もちろん

11日はパーティーの約束でしたし

また次に会えることを願って




でも、最後かも知れないので

たくさん抱き締めて

たくさん「ありがとう」と言いました




すると、父の手がわたしの後頭部に触れ

頭を撫でてくれました




きっと、わたしが幼ないころは

たくさん頭を撫でてくれたのでしょうが

記憶にはありません

「最初で最後の」いいこいいこ




「11日に絶対会おうね!」

これがわたしが父に掛けた

最後の言葉でした




わずか、3時間足らずの

対面だったと思います

ベガのことがなければ

もっとじっくりお別れが

できたかも知れないけれど




これでよかったのだと思います

最後も、いつまでも父から離れないわたしに

母が「キリがないよ」と

引き離してくれました




ベガのことも心配だったので

そのお陰で悲しみが分散されて

かえって救われた気がします




今度はベガの番

「どうか無事でいて」

父に想いを馳せながらも

足は家路へと急ぎます




「ベガ!ごめんねごめんね」

てっきり横になっているかと思ったら

いなかったので

「え!」と辺りを見回したらいました




キャットタワーに移動しており
ほっとひと安心
遠くからそっと画像を撮り
みんなに無事をお知らせしました
IMG_1595
【余談】ベガのことについて
なん度か、病院に行った日は
ぐったりしてしまうことがあったのですが
たまたま前日が病院の日だったもので
その症状(?多分精神的なものだと思うのですが…)
が出てしまい、その後すぐ回復しました
それ以来、今のところ病院へ行っても
その症状はなく、元気にしてます




最近、ベガの体調不良の記事も続いていますが
今は本当に元気です
食欲も旺盛で遊んだり甘えたり
ふつうのにゃんこ生活を送っています






その日、母が持たせてくれたもの
父が作ったお味噌とたくあん
梅干しは作れなくなってしまったので
父が元気なときにポチったものだそう
IMG_3791
最後の父の味
大事に大事にいただきました
父が亡くなった後も食べるのはつらいなあと
思いましたが、少しずついただきました




それからわたしは

季節外れの「梨」を探しました 

父が食べたいと言い

母が「この時期はないわよ」となだめたら




「食べられるものがないっつってんだろっ」




わー

ひさびさに聞いた父節

かすれ声なのに

思わずビクッとなるほど恐ろしい




父は、娘たちや周りの人には

とっても穏やかな人でしたが

母にだけは怒鳴ることがあり

それがまた迫力満点なんです
(ふだん怒らない人ほど…ってやつですね)




わたしが嫁いでからは

「おかあさん、おかあさん」て

すっかりデレデレの

おかあさんだいすき人間になっていましたが




自由がきかなくなった体に

苛立っていたのでしょう




母は、慣れている感じでしたが

こんなに甲斐甲斐しくお世話しているのに

父のきもちもわかりますが

やるせないですよね




でも、父と最後の会話をしているときに

「お母さんでよかったね」

「こんなに献身的な人いないよ」

などと話したら




父は目を瞑りながら

(うん)(うん)と

噛み締めるようにうなずいていました




なので

父のためにも

母のためにも

なんとしても梨を探さねば!




そうしたら、意外にも

ネットにはたくさんありました

季節外れの梨




決してお安いお値段ではないのですが

わたしと同じ「病床の父が」や

「妊娠中の妻がどうしても」など

季節外れの梨に感謝の声がたくさんでした




遠方ですし

注文があってからの収穫なので

間に合うかわかりませんが

急いでくれとも言えず




「病床の父がどうしても食べたいとのことで
間に合うことを祈っております」




と、備考欄に書いて注文したら

「なるべく急ぎます」と

わざわざメッセージをくださいました




翌日、節分の日




母から

「恵方巻きとショットグラスにビール一杯飲んだよ」

と、LINEが来ました

まだ元気なときに

父自身が選んだ恵方巻きだったようです




このまま、またゆっくり

少しずつすこしずつ

衰えていくのかな

とも思っていました




それから程なくして

父からLINEが来ました

「梨が届いた」と




よほど急いでくださったのでしょう

父を見舞った2日の夕方に注文し

4日の夜には「食べたよ」と…
後からストアにはお礼を兼ねて
レビューを書かせていただきました





父自身が撮影したようです
20230204送った梨(父撮影)
寝たきりになってからは
一言だけのLINEだったのに
文章で、画像も添付して…
これが父からの最後のLINEとなりました




いよいよ最期のとき

そんなとき

わがやに波乱が起きました




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら  【2023.1.26】主人が実家を訪問し父は元気だったと教えてくれた夜仕事のことで伝えることがあって主人が父へLINEしたのですが割とリアクションの早い父なのに返信がありませんでした疲れて寝ちゃったのかな?【2023.1.30】母からの着 ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




前回はこちら
 





【2023.1.26】




主人が実家を訪問し

父は元気だったと

教えてくれた夜




仕事のことで伝えることがあって

主人が父へLINEしたのですが

割とリアクションの早い父なのに

返信がありませんでした




疲れて寝ちゃったのかな?




【2023.1.30】




母からの着信
IMG_1555





ふだん母から電話が

かかってくることはないので

嫌な予感しかしませんでした




母は泣きながら

ほんとうに寝たきりになってしまった

ことを伝えてきました




主人が帰った後

父はよろよろでなんとかお風呂に入り

それきり

ほとんど食べられず

トイレも自力では無理になったそうです




「今すぐ行く」と言ったのですが

もともと2月2日に訪問する予定だったので

予定通り、そのまま電話を切りました




ベッド生活に入ってわずか数日の出来事




お医者様の勘で

「そろそろ」と思ったのか

ベッド生活になってしまって

頭が終わりだと思い込んでしまったのか




一番驚いたのは主人です

「だって元気だったよ?」

「仕事していっしょにカステラ食べたんだよ」




ずっと見てきた母ですら

あっという間の出来事だったそうで

主人が動揺するのも無理はないです




【2023.2.1】




わたしが実家訪問する予定の前日

この日は

めいっこがもともと訪問する日だったそうで

これが「最後のおじいちゃん」




訪問を約束したときは

こんな状態とは

予想していなかったことでしょう

もう数日待ってくれていたら…




でも、この日を設けていなかったら

会えなかったかも知れないので

神様が作ってくれた最後の時間




途中、父とめいっこの自撮りが

送られてきました




めいっこはたくさん泣いたそうですが

とってもいい笑顔

父は…今まで見てきた

「痩せてしまった父」とはまたちがう

さらに一段と…もう人間の最後の姿




【2023.2.2】




いよいよ、わたしが訪問する日




母の電話があってから

毎日まいにち

「なんとか訪問する日までもってくれ」

神棚にお願いしていました




ああ、神様ありがとう
317b53c2
と、思ったのに!




前の晩に、お猫様が

調子悪くなってしまいました

さっきまで元気だったの

なんというタイミング




奇しくも神棚に横たわる黒猫様は

昨年の父の誕生日パーティーの日に

実家からもらったもの

ベガが身代わりになってくれたのでしょうか




いや、でもそしたら

ベガを置いてお見舞いに行けないんだよ

よく、お子さんがいる人が

「お出かけの時に限って熱出す」と

言っていたのがよくわかりました




「行けないかも知れない」

と母にLINEをしました

父と母のことを思うと

もうなんともやるせないきもち




せっかく、この日までもったのに




が、翌朝なんとか数時間なら

ベガをひとりにしても平気そうな

状態になっていたので

急ぎ用意をしやっと念願の実家へ




父は、リビングの

パーテーションの向こうにいました

主人が来たときに

いろいろ配置転換したようで




ベッドの上でも仕事ができるように

ベッド用のディスクも追加レンタルしてあり

プリンタも移動してあったのに

もうそこには起き上がることもできない

父の姿がありました




新年会のときよりさらに

かすれた声で

なにか言葉を交わしたはずなのですが

覚えていません




忘れないよう

ブログに残そうと思ったのに

もう忘れちゃいました




そして、みんなでランチをしました
母が作ってくれたサンドイッチ
サンドイッチを用意している母を見たとき
「ああ、無理してでも来てよかった」と思いました
20230202お見舞い
幼いころから慣れ親しんだ母の味
今こうして
最後の父を眺めながら食べることになるとは
一生忘れらない味




父は、本当にちいさなサンドイッチのかけらと

コーヒーをなん口か飲んでいました

自分では食べられないので

母に口に運んでもらいながら




それでも、だいすきなコーヒーは

飲みたいんだなとうれしく思いました

たまに「コーラ」とも言い

母が飲みかけのペットボトルを

慣れた手つきで飲ませていました




そのうち「トイレ」と…




わたしは席を外そうとしました

でも、母が「ともちゃん手伝って」と

「ええ〜」嫌とかそうゆうことでなく




見ていいものなのか

なにをどう手伝ったらいいのか…

正直動揺しかありませんでした




父は、 わたしがいようが

お構いなしで下着をずるんっと脱ぎ

ああ、もうそういうことじゃないんだな

ベガが膀胱炎になったとき感じましたが
(いっしょになんてしちゃってすみません)











生きていれば

必ずついてまわる排泄は

恥も外聞も関係ない

食べること以上に必死です




母は大きなポータブルトイレを

ベッドの横に設置し

父が移動するのを手伝います

わたしも言われるがまま手伝うのですが




痩せ細った父の体に触れるのが怖くて

どれくらい力を入れていいものなのか

わからず

恐る恐る父に触れます




なんとか父は用を足し

また父がベッドに戻るとき

母が「よかったねーお父さん

娘に手伝ってもらってよかったねー」

としきりに言うので




「え、そういうものなのか」

席を外そうとした自分を恥じました

「それならば!」恐る恐るだった手に

グッと力を入れて父を強く抱き抱え

元の位置に戻しました




「こんなとき介護の資格があったらな」

と思いました

職業にするかはさておき

親、配偶者、道行く困ってる人…

サッと手を差し伸べることができます




余談ですが

かつて、車椅子から落ちてしまった女性と

また別の日に父と同じくらいの男性が

転んでしまったところに遭遇し




手を差し伸べたものの

どうやって起こせばいいのかわからず

結局周りの人に手伝ってもらったのですが

そのときも介護の資格が頭をよぎりました




このときの父も

介護の方に大変お世話になりました

訪問医師と看護師さんの他に

定期的に介護士さんが
(正確には看護師さんだったかな?)




父の爪を切ってくれたり

アロマオイルで

頭やむくんでしまった足を

マッサージしてくれたそうです




今の介護士さんて

そんなことまでしてくれるんだー!

感動しました




めいっこの訪問の前

また別の介護士さんたちに

お風呂にも入れてもらったそうで




3人の「お風呂部隊」が

部屋の中にサッとお風呂を設置して

父を入れてくださったそうで

父は「きもちいい」を連発していたそうです




ポータブルトイレなどは

父がまだ元気なときに

自分で用意していたそうで
(ぜんぜん知りませんでした)

父は、自宅で乗り切る覚悟だったのですね




母や元看護師のおばの協力ももちろんですが

たくさんの専門の方々がいらっしゃって

そして、今の進んだ介護システムのお陰で

父の希望を叶えることができました




そして、いよいよ

父との最後の会話ですが

長くなってしまったので

次回に持ち越します




「愛しい父へ」こんなに長くなる

予定ではなかったのですが…

⑩くらいでおわらせるつもりだったんですけど

無駄に長くなってしまいました




もし、お読みくださってる方が

いらっしゃるのなら

ありがとうございます

あともう少しだけ

お付き合いいただければ幸いです




初回はこちら





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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら 【2023.1.1】昨年の元旦にみんなに余命を宣告してからちょうど一年この日が、8人で最後のパーティーとなりました いつもは夕方から夜にかけて催されるパーティーですが年に一度、新年会だけは朝から実家にいます最後の日を充分に堪能で ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




前回はこちら






【2023.1.1】




昨年の元旦に

みんなに余命を宣告してから

ちょうど一年

この日が、8人で最後のパーティーとなりました






いつもは夕方から夜にかけて

催されるパーティーですが

年に一度、新年会だけは

朝から実家にいます




最後の日を

充分に堪能できた一日でした




わたしが知ってる父よりは

痩せてしまっているけれど

いつも通り、伊達巻をつくったり

おせちの準備をしていました




父の手書きの箸袋も恒例(画像:父LINE)
20221228
ひとりひとりにメッセージまで書いてくれます




ただひとつ

クリスマスパーティーのときには

感じなかった異変を感じました

「声がしゃがれてる…?」




一ヶ月に一度

少しずつすこしずつ

衰えてはいたのだろうけど

初めてはっきり感じとった異変でした




でも、いつも通り

みんなと食卓につき乾杯し

「今年もよろしく」

食事もお酒もいただいていました
IMG_0024





すると

突然、歌い出したのです

「陽気なおとうさんなのね」

と思われるでしょうが




父は絶対に歌わない人でした

みんなでカラオケに行って

どんなに盛り上げても

歌ってくれませんでした




そんな父が自ら

しかもアカペラで




石原裕次郎さんの歌でした

目を瞑り

懐かしむように…

それを見た母が泣いていました




そのときが近いんだな




それは感じとれましたが

まだ元気なので

一年間覚悟してきたはずなのに

まるで実感が湧きません




解散の時間になり

いつも通り

「これが最後かも知れない」

と思いながら父と別れました




後から主人に聞いたのですが

「とりあえず

80歳になる年までがんばれましたね」 

と、父と会話をしたそうです




一見、失礼な会話に

聞こえるかも知れませんが

主人はいつも「まずは目先の目標を」

そうやって父を盛り立てくれました




わたしは年頃になると

いずれ来る両親との別れが

とてつもなく恐怖でした

「とりあえず80歳まで元気でいてくれたら」




いつの頃からか

そう思うようになっていました

そんなこと親に言ったことはありませんが

ちゃんと叶えてくれました




来月、父が生きていたら80歳でした

ここまで元気でいてくれたらいいな

と思っていましたが

それは叶わなかったけれど




ちゃんと80歳になる年まで

がんばってくれました




その後も、いつも通り

父とLINEでやりとりをしていました




2023.1.3(画像:父LINE)
20230103
「きょうはこれ食べたよ」
「散歩に行ったよ」




このままゆっくりゆっくり

また今年の桜も眺めることができるかな




2023.1.8(亡くなるちょうど一ヶ月前)
20230108
ただ、どんどん食べられなくなっていたようで
朝、目覚めて「今食べたいもの」を
母にそっと囁くのが日課だったそうです
この日はおいなりさん




次回のパーティーまで

期間が空くので

一人で実家いってこようかな




そんなことを考えていた矢先

それは突然やってきました




【2023.1.26】




父から

「きのうからベッド生活になりました」

とLINEが来ました




そんなに悪かったの?

こないだ散歩してたじゃん

いつでも覚悟していたくせに

ショックでした




でも、真相はちがったのです




たまたま、その日は

主人が用事があって

実家に行く予定だったので
(だから父も打ち明けたのでしょうね)

父の様子を見てきてくれました




寝たきりになってしまったわけではなく

電動ベッド(レンタル)の上で

生活した方が体への負担が少ないから

という、訪問医師の助言だったそうです




「いつも通り元気だった」と

主人が、ベッドでPC仕事する

父の画像を送ってくれました




なんだー




でも、これが最後でした




---------------------------------------------------------




LINEっていいですね




写真も画像もスタンプも

後で見返すと

胸がグッとなりますが

まるでまだ生きているような




瞬時にそのときに

タイムスリップしたような




2023.1.21(画像:父LINE)
20230121
父が最後に送ってくれた食事画像
どうしても崎陽軒のお弁当が
食べたかったらしく
買ってきてもらったそう




でも、父・母・叔母・主人・私の

5人のグループLINEで

やりとりをしていたので

いつも既読が「4」と付くのですが




もう何度送っても

「3」にしかならなくなったとき

すぐさま現実に引き戻されました




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2/8に旅立った父の記録前回はこちら  みんなに余命宣告を宣告してすぐ抗ガン剤治療に入りました投与は二週に一度ですが経過を診るために毎週通院していましたわたしが想像するもがき苦しむような副作用ではなかったけれど投与して一週間は食欲がなくなるそうで母が工夫して ... 続きを読む
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みんなに余命宣告を宣告してすぐ

抗ガン剤治療に入りました

投与は二週に一度ですが

経過を診るために毎週通院していました




わたしが想像する

もがき苦しむような副作用ではなかったけれど

投与して一週間は食欲がなくなるそうで

母が工夫して食べさせているようでした




2022.1.31(画像:父LINE)
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出かけるわけでもないのに
お弁当にしてもらったり…
R-1は、わたしが免疫力アップにいいよって送ったら
それから最期までまじめに飲んでいたようです




2022.2.22(画像:父LINE)
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「手前味噌を仕込んだよー」
樽には「食べ頃:2023年2月2日」
って書いてありました
亡くなる6日前の日付




2022.3.3(画像:父LINE)
20220303
父は食べることがだいすきだったので
LINEのやりとりは食べ物が多かったです
お酒は副作用で思うように飲めず
このころは甘酒にハマっていました




2022.4.2(画像:父LINE)
20220402
まずは「今年(2022年)の桜を目標に」
がんばって、愛でることができました
みんなで毎年お花見をした公園
歩けなくなるまで散歩した公園




2022.5.28(画像:父LINE)
20220528上高地
毎年GWになると山菜採りに行くのですが
この年も奥多摩まで行き
月末にはお世話になった山へ
いろんな方とお別れをしたそうです




またわたしに内緒で行ったので

わたしはLINEで激怒してしまいました
(ちょっと深い理由があって)

父とわたしはケンカをしたこともなければ

わたしが父に怒ったこともありません




最初で最後のケンカ
(一方的にわたしが怒っていただけ)

でも、仲はよかったけれど

お互い遠慮がちな父娘だったので

最後に腹を割って話せたような気がします




2022.6.19(画像:父LINE)
20220619父の日
わたしにとって「最後の父の日」
父自身が張り切って
串焼きを準備してくれました
わたしが几帳面なのは父譲りだと思います
(こんなにマメでも器用でもないですが)




2022.7.23(画像:父LINE)
20220723旅行
父にとって最後の旅行
コロナだし酷暑だし直前に高熱
本来なら止めたかったですか
とても楽しそうなLINEがたくさん届きました




2022.8.13(画像:父LINE)
20220813
父にとって最後のお盆
みんなで迎え火を焚きました
今年からは父は迎えられる側ですね
このころ抗ガン剤をやめる話を聞きました




副作用の割には

そこまですこぶる効果が

見えたわけではない抗ガン剤ですが

やめてしまったら進行してしまうのではないか




そう思わなくもなかったですが

高齢なのでそこまで早くないだろうし

最後になにも気にすることなく

過ごして欲しかった




父が決断したことですし

なにも反対する理由はありませんでした

抗ガン剤のお陰で

残りの一年を過ごせたのかも知れません




2022.9.14(画像:父LINE)
20220914
高熱が出て一時入院しました
めいっこがおじいちゃんと過ごすために
設けたお泊まりの日に発熱
神さまって時に意地悪ですね




2022.10.24

むかし、家族4人で過ごした街へ母とお出かけ
本当は父もいっしょに行きたかったですが
このころには長時間の外出は厳しいようでした
でも、抗ガン剤をやめたお陰で食欲旺盛




2022.11.24(画像:父LINE)
20231124
ワールドカップも
毎日夜更かしして観ていました
リビングに集まってみんなで観戦するのも
4年に一度の家族行事でした




2022.12.10(画像:父LINE)
20231210
毎年冬になるといただける
父のたくあんや白菜漬け
余命宣告の後は「これが最後かも知れない」
と心して食べましたが
今季も食べることができました




12月は 、歯医者さんにも行き

床屋さんへも行き

命は儚いとは言うけれど

人間って意外と強いですね




こうやって一年を振り返ると

とてもあと一年で

いなくなるようには思えず

精力的で濃ゆくて




父にとって

最後の一年に相応しい

満足のいく一年だったのでは

ないかと思います




そしていよいよ今年の新年会

余命宣告を宣告されて一年

それがみんなで過ごす

最後の日となりました




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら  「余命宣告」というと若くして宣告されたような悲壮感が漂いますが日本人男性の平均寿命通りの宣告長生きすれば、誰しもがなる病気そう割り切りたかったですが父は「おじいちゃん」と呼ぶにはまだまだぜんぜん若々しくてふつうにごは ... 続きを読む
2月8日に旅立った父の記録




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「余命宣告」というと

若くして宣告されたような

悲壮感が漂いますが




日本人男性の平均寿命通りの宣告

長生きすれば、誰しもがなる病気

そう割り切りたかったですが




父は「おじいちゃん」と呼ぶには

まだまだぜんぜん若々しくて

ふつうにごはんを食べお酒を飲み

仕事だってしてる




とても半年で

亡くなるようには見えませんでした




自分の命の期限を伝える父と

すすり泣く家族

その中で、一人だけ

冷静な人がいました




わたしの主人です




主人は、仕事柄

そういったことに詳しいので

淡々と説明をし始めました




「余命宣告」は

あくまでも「なにもしなかったら」

の期限であること




医療は手術が基本なので

それができなくなったら

「終了」を言い渡されること




でも、抗ガン剤や放射線治療

民間療法など手術以外の方法は

いくらでもあること




ゆえに、余命半年が

5年になる例もたくさんあること




以上、あくまでも素人の主人が
一年以上前に語ったことを
虚ろな頭で聞いていた
わたしの曖昧な記憶ですので
「そういうニュアンス」として
受け止めてください





みんな心がぱーっと

明るくなるのがわかりました

とにかくあがきましょうと




主人が仕事のつてで

ガンセンターに問い合わせしてみるので

できることをやりましょうと




そして、みんな笑顔で解散しました




わたしはいつのころからか

父と母と別れるときは

「これが最後になるかも知れない」と

ハグか握手か、とにかく体に触れて

その風景を目に焼き付けてバイバイします




その日の父とのハグは

今でもはっきり覚えています
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主人には、わたしの父を含めて

3人の父親がいます

でも、2人亡くしています




わたしの父が一番長い「父親」だそうです

「3人も父親を失うわけにいかない」

そのことをいつの間に言ったんだか

わたしの父に伝えたそうです




主人が単独で実家へ行って

今後の治療方針の話し合いをしたり

精力的に動いてくれました




父と主人は仕事で絡んだり

とてもいい信頼関係でした

結婚後は

わたしより会っていたんじゃないかな




その信頼している息子が

やることだったので

父も心強かったんじゃないかなと思います




程なくして

長いような短いような

ちょっと苦しい抗がん剤治療が始まりました




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら 【2022.1.3】新しい年をお迎えして三日めが8人での新年会でした宴もたけなわそろそろお開き…そのとき父が「話がある」と瞬時に悪いことが頭をよぎるやいなや「おれ死ぬから」と再手術して一年経たずにまた同じところに再発したことま ... 続きを読む
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【2022.1.3】




新しい年をお迎えして

三日めが8人での新年会でした

宴もたけなわそろそろお開き…

そのとき父が「話がある」と




瞬時に悪いことが頭をよぎるやいなや

「おれ死ぬから」と




再手術して一年経たずに

また同じところに再発したこと




また手術して取り除くことはできるけれど

すでにリンパにも転移があること




年齢や状況を考えたら

手術はおすすめしないこと




つまり、病院ではもうなにもできないこと

つまり、余命宣告だということ




余命はあと半年だということ




余命宣告を宣告された新年会
最後の文章はそれ故でした







おばとめいっこが

「わっ」と泣き出しました




父は、娘たちに

決して涙を見せない人でしたが

泣いているようでした




父と母が籠っていた山は

冬は閉山するので

いつも11月ごろに一時退去するのですが

下山した後に余命宣告されたようです




来年も戻るつもりだったので

それなりのことしかしてこなかったのでしょう

慌ててもう一度山へ戻り

もう二度と戻らない処理をしたようです




二人で過ごした思い出の山を

「もうほんとに最後だ」と思いながら

離れたときの心境はどうだったのでしょうか 

最後の景色はどのように映ったのでしょうか





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父は母の前では泣いたのかな

二人で抱き合って泣いたりしたのかな

きっと、母にしか見せない

父の姿があったのだと想像しています




ふたりきりで乗り越えて

今後のことを話し合ったりしたのでしょう




クリスマスパーティーのときは

せっかくの楽しいときだから

と、みんなに報告するのはやめて

新年会を選んだようです




人生の終わりが見えてきたそのとき

わたしたちにはそれを一切隠して

なにごともないように過ごした

時間はどんなだったでしょう




--------------------------------------------------




わたしが野球をすきになったのは

父がきっかけでした

小学生のころ、始発で後楽園まで行き

炎天下の中、父と姉と一日並んだり




東京ドームになってからも

何度となくいっしょに観戦しました

毎月のパーティーの会場が

東京ドームだったり




病気が発症してからも

なん度も行こうとしたのですが

コロナ禍になってしまったり

そのうち




3時間もじっと

あの狭いところに座っているのは

しんどい体となってしまい

結局一度も行けませんでした




最後にいっしょに観戦したのは2017年
最後になるとは思わなかったけれど
今でもハッキリ覚えてます
それくらい楽しかった記憶

 





それでも

最後まで父娘の会話は

野球が中心でした




勝ったり負けたり

父に八つ当たりしたり




WBCも楽しみにしていました

「WBCまでがんばろうね」

「開幕までがんばろうね」

「今年こそ!」




それは叶いませんでしたが

毎試合、母はテレビの前に

父の遺影を置いて

応援していたようです




ピンチのときに

「おとうさんお願い!」と祈っていたことを

母に話したら

母も「同じく〜!」




わがや的には

日本が世界一になったのは

父のお陰となっています

これはわが軍も日本一になるかも知れません




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら  【2020.12.26】この一年、コロナの間は毎月のパーティーも中止にしていたので両親とはメールでのやりとりのみその日もなにげなく父から来たメールを開くとそれは転移そして再手術をする報告でしたきっと、クリスマスがおわるのを待っ ... 続きを読む
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【2020.12.26】




この一年、コロナの間は

毎月のパーティーも中止にしていたので

両親とはメールでのやりとりのみ

その日もなにげなく父から来たメールを開くと




それは

転移そして再手術をする報告でした

きっと、クリスマスがおわるのを

待っていたのでしょう





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油断していました




もちろんいつも父の体調を

気かけてはいたけれど

「3年」そして「コロナ」の方に気を取られてしまい

「転移」という二文字が突然に重く感じました




やっぱり癌って転移するのね…

それが、ようやく頭に浮かんだ感想でした




同じころ




わたしも「悪いものかも知れない」

と疑われるものが発見され

父のことはつゆ知らず

母に相談していました




母は、父と娘と

いっぺんに悪い報告が重なり

でも、それを隠しながら




あのコロナ禍で

父の検査に付き添い

わたしを励まし…




わたしは結局
悪いものではありませんでしたが
ガン検診の大切さを学びました







【2021.1.15】




明けて2021年に

二度めの手術




今回は、嘘ではなく

前回のように難しい手術でもなく

ちゃんとみんなに宣言をして…なのに

コロナ禍だったのでたった一人で挑んだ父




頼りは、父と母からのメールのみ

わたしは自宅で祈るだけです





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「手術おわったよ」

「今回は退院早そうだよ」

「リハビリ順調だよ」




文章だけでは軽やかに見えますが

手術は手術

大変だったと思います




母は着替えを届けに

毎日病院へ行ってましたが

会わせてもらえないと

嘆いていました




わたしはその年の5月に手術しました
ほんとは父と同じ1月に手術する予定でしたが
立ち合いはできないとは言え
時期をずらしてよかったです







わたしは開腹手術ではなかったのですが

それでも当然

麻酔後の苦しみとリハビリはありました

高齢の父はどれだけ大変だったことでしょう




1月22日に退院し、その日は
「おでんパーティーだよ」
「サプライズで鯛の尾頭付きがあったよ」
とメールが来ました

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手術前も面倒なものです

検査、説明、準備…

なん度も病院へ行き

ギリギリまで病院へ行き




加えてPCR検査

父のときもわたしのときも

なかなか厳しいコロナ禍だったので




ここまで準備してもし

自分はもちろん家族、執刀医が感染したり

入院予定の病院でクラスターでも起きたら

今までの努力は全てパーです




でも、父もわたしも

コロナの影響を受けることなく

術後も順調で

相変わらず世間はコロナ禍でしたが




11月にようやくパーティーが再開されました
 





父の病気、コロナ…

「今、会わないと、もう会えないかも知れない

でも、会って両親に感染させてしまったら…」

そのジレンマの中、一年半過ごしていました




でも、ようやくそれが解放されました

パーティーも再開され

父は順調

わたしも定期的な術後検診がおわり




すべてが元通り…

に、見えたのは表面上だけでした




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2月8日に旅立った父の記録前回はこちら 【2018.3.10】父の退院祝い 「実は癌だった」とようやく真実を教えてくれました驚きよりも「あー、なるほど」と、腑に落ちなかった部分に納得がいきました「本人への告知」をどうするかではなくわがやの場合「家族への告知」でした言 ... 続きを読む
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【2018.3.10】




父の退院祝い






「実は癌だった」と

ようやく真実を教えてくれました

驚きよりも

「あー、なるほど」




と、腑に落ちなかった部分に

納得がいきました

「本人への告知」をどうするかではなく

わがやの場合「家族への告知」でした




言ってしまった方が

すっきりするのに

父は、母とおば以外には内緒にして

手術へ挑む決心をしたのです




「胆のう癌」

あまり聞き慣れない名前

女優の川島なお美さんが患った病気です




他の臓器と比べて

奥まっているので

発見も手術もとても難しいらしく

(だからあんなに時間かかったのですね)




でも「先生がきれいに取り除いてくれたよ」と…




その通り、その後は順調なようでした

一度、癌を患ってしまったら

定期検診は避けられないですが

毎回「異常なし」と言われ安心していたようです




しかし

その年の父の日に

また別の告白をしてきました

「おれ山に住む」




えええー






父は長野の出身です

わたしも子どものころ

なん度も連れて行ってもらったので

だいすきな長野




父の生家は山奥になるのですが

その近くに春夏の間だけ

ショートステイできる施設があり

そこを「もう借りた」と(事後報告)(定期)




父はガンコなので

もうみんな諦め顔でした

大手術をしてなにかを悟ってしまったのか

余生をすきに過ごしたくなったのか




そのときは体のこともあり心配でしたが

その5年後に亡くなるのですから

今は、父の最後のわがままを聞いてあげて

よかったなって思えます




ドキッとする出だしですが
その年の夏に主人が単独で
山を偵察に行きました







父は5人家族でした

両親(わたしの祖父母)はもちろん

ふたりの弟も亡くしています




一番下の弟はまだ58歳で

ずっと癌で闘病していましたが

2011年に亡くなりました




上の弟は一昨年亡くなりました

コロナ禍だったので父と同じくひっそりと

兄である父ですら後日

お線香をあげに行っただけです




父がどう考えていたかはわかりませんが

家族の中で自分だけが残ったきもちは

どうだったでしょう

おとうさんがんばったね




その5人で過ごした故郷で

最後に思う存分

だいすきな山ライフをさせてあげてもいいかな

そう思えました




それから父の東京⇄長野の生活が始まります

いつものパーティーと定期検診のために

月に一度だけ下山してくる生活




そしてわたしはその年の秋に
主人と山を訪れました
一度はこんな経験も悪くないなと…
両親とわがやと、4人でのいい思い出です







はじめは「単身赴任」だったのですが

そのうち母まで連れて行くようになり

コロナ禍になってもその生活はつづきました




移動規制もある時期でしたし

高齢者の父母への感染も心配でしたし

なにより、持病がある人の罹患は

恐怖でした




自粛していて欲しかったのですが

それでも

わたしの目を盗んで行き来をしていました

わたしに言うと怒られるからこっそりと…




在し日の父と父が耕した畑
ここで童心にかえっていたのでしょうか

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なんとかコロナをかいくぐり

冬は閉山してずっと東京にいるので

2020年の冬を迎えるころ

今年一年無事に過ごせた…




と、思っていたのに

父から転移を知らせるメールが届きました




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きょう3/8は旅立って

ちょうど一ヶ月の月命日なので

実家へお線香をあげに行ってきました

めいっこの誕生日でもあります




とてもなかよしな
「おじいちゃんと孫」だったので
縁がある日を選んだのでしょうか
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お花や弔電など
お悔やみが次々と届いているようでした
わたしがいる間にも
母のLINEや電話がよく鳴っていました
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お昼にいただいたお蕎麦も
長野の同級生が送ってきたもの
その山の施設の管理人でもあったので
父と母が大変お世話になった方です
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これは「とうじそば」というスタイル
なのですが(汁の中に籠でそばを投じて温めて食べる)
父が生まれ育った場所の郷土料理です




「最後にもう一度

蕎麦を食べさせてあげてください」

と送ってくださったので

父にお供えしてからいただきました




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